自己責任論が振り回した代償の責任を取る

フリースクールで子どもたちと一緒に過ごしていたり様々な相談を受けていると、「何でこの問題は未だに解決してないんだろう?」とか「いつまでこんなことでこの子たちや保護者が苦しまなければいけないんだろう?」と思うことがよくある。

よくある、というレベルじゃないな。毎日ある、と言う方が正しい。

「ここ」も大学卒業後に立ち上げてもう13年目。

日本にフリースクールが初めてできてから40年あまりが経とうとしている。

にもかかわらず、未だに「学校絶対主義」とか「フリースクールは甘えさせているだけ」という価値観に出会うことが多い。

正直それを懇切丁寧に説明する気力は既になく、ため息を(心の中で)つきながら無表情でロボットのように回答している自分もいる。

実際に、昨日も市民体育館の利用について市外からフリースクールに通う子どもたちも市内在学料金で利用させてほしいと、1か月前に訴えた結果を聞きに役所へ出掛けた。

そこでの回答は、「前例がない」「検討したことがない」「要望されたことがない」とのこと。

うん、知ってる。

勉強してや。

今までの歴史を見ても、差別を受けてきた当事者が声を上げることがどれだけの勇気と労力を割き、時には命までも奪ってきたかを少しでも知っていれば、自分たちの仕事の範囲を経験の有無で判断するなんてことはできないはず。

「今まで言われたことないしやったこともないから(しない)」

「今までしたことないけどやって(考えて)みる」

この二つの距離が40年間埋められてこなかったんだなとひしひしと感じる。

そんな中、読んだ記事がこちら。

恥ずかしながら、このようなテーマパークがあることもミゼットプロレスのことも知らなかった。

乙武さんの記事を読んでいると、不登校というだけで不利益を被り差別や偏見を受けてきた子どもたちやお母さん・お父さんの姿が目に浮かんだ。

隠す対象となった【障害】と【不登校】。

「あなたの子どもが学校に行かずに元気に過ごすことで、他の子がそれを見て学校に行かなくなったらどうするんですか?」なんて声を学校や地域から浴びせられることもあるという。

不登校=悪という価値観は今も昔も容赦なく対象の親子に強要される。

障害者が人目に触れることで「差別を助長する」という差別にあってきた人たちと、「不登校を助長する」という差別は全く違うと思う反面どこか共通するところがあるようにも感じた。

不登校はとにかく「学校に行かないあなたが悪い」「学校に行かせない親のあなたが悪い」という文脈だけで語られることが多い。

今でも生徒の在籍校へ訪問をすると、「どうにかがんばって学校に行くように言ってください」とお願いされることが少なくない。

そんなことを言われる度、この40年間で何も学んでいない、何も見ていない、興味がないんだろうなと思ってしまうことは何も僕だけではなく、現場の若い先生も身を挺して「それは違いますよ!」と意見を述べてくれる場面にもよく出くわすようになった。

時代は変わったとは言えない。

けれど確実に変わりつつある。

もう誰の命も犠牲にしてはいけない。

社会全体で子どもの命と権利を守ると宣言しなければならない。

この40年間の「自己責任論」が振り回した代償の責任を、僕たちは背負い新しい時代の糧にすることが求められている。


最後まで記事をご覧いただきありがとうございました。