すれ違う親子を孤立させる社会の構造
今日は吹田校【あまかり】と淡路校【ういるも】を何度か往復。
いい天気だったのでとても気持ちがよかったはずだが、生徒からは「最近忙しいん?」と悲しそうに聞かれ少しショック。
あと少しで卒業する子もたくさんいるので、最後の時間を優先的に過ごしたいけどそういうわけにもいかず。
かといって自分がこうして現場に顔を出すのもなるべく減らしていかねばなぁとか、葛藤の中で過ごした一日になりました。
相談もものすごく増えてきているし、今年度を振り返ると休校期間があったにも関わらず入学してくれた子どもは過去最多です。
自分たちにできることの限界を感じつつ、その範囲を広げつつも適切な支援に繋げるための仕組みづくりも同時にしないと、いつまでも不登校でしんどい思いをする親子の数は減りません。
短期で対処することと長期的に変えていくことは、いつだってそれを両輪として動かなければ社会課題は解決しません。
相談を受けていると、お母さんと子どもがそれぞれでとてつもない努力をしているのに物事が前に進まずに悪循環に陥っていることがよくあります。
根本はお互いがお互いを想い愛し合っているのに、距離感が掴めなかったり閉鎖的だったり外部の圧力がかかったりでなかなか物事が好転しません。
そんな時に有効な手立ての一つが、外の風・第三者の介入です。
もちろんうまくいくことばかりではありませんが、お互いがお互いのことを想っているのにどうしようもない時などは、それぞれの仲介役がいるかいないかで状況は一変することもあります。
不登校になると、この第三者がとにかく介入しづらい。
恥ずかしくて誰にも言えない。
相談先がない。
理解をしてくれる人がいない。
そもそもダメなことだから自分だけで解決しなければならない。
そんな想いが大きな障壁になっているんです。
だから声を大にして言いたいんです。
子どもは社会で育てるものです。
たった一人で育った子どもは過去誰一人としていません。
誤解を恐れずに言うと、子どもが育つのに必ずしも親は必要ではありません。
親代わりになる事例なんてたくさんあります。
だから子どもを構う必要はないと言いたいのではなく、親だけで子育てや教育を抱え込まなくていいと言いたいんです。
当たり前の話しですが、不登校になっても当然一人で解決に向かう必要はありません。
当たり前の話しですが、不登校はダメなことでも何でもありません。
当たり前の話しですが、相談先がなく理解がないのは親のせいではなく社会の責任です。
子どもが学校に行けないと親子で孤立してしまう構造を作っているのはこの社会です。
行動力や子育てや勇気や個人の能力の問題、個人の責任にしているのはこの社会です。
ここは、大きな声で叫んでもいいんです。
声を出しにくいのは当然です。
この国は、物を言わない弱者には優しいのにその弱者とされる人たちが主張をするとなぜか叩く風習があるようです。
なんじゃそれ?
なんで上からやねん。
どの立場で物言うとんねん。
今日も何件か相談を受けていて、目の前のお母さんや子どもがなぜこんな苦しい思いをしなければならないんだと憤りました。
冒頭で長いスパンで変えることは分けると言いましたが、そんな自分にもふざけんなです。
今変えろよ自分。
いつ変わるんだよ自分。
何してきたんだお前。
悔しさが今日も溢れ、また明日が来ます。
今日はちょっと落ち着くのは難しいみたいです。
飲まずにはいられません。
最後まで記事をご覧いただきありがとうございました。