“YES”の反対は必ずしも”NO”ではないという話し

昨日は夜遅くまでブツブツとあーでもないこーでもないと頭を抱えていた。

誰かに話しを聞いてもらいたい気持ちもあるけど、誰も関心がなく誰にも共感してもらえないという思いでもある。

朝になっても起きたくない。

寝ていたいというより起きて生活をしたくない、そんな感じ。

用事を済まし、必要最低限のことをしてギリギリまで布団に潜り込む。

あれ、もしかしてこの感覚って「死にたいわけじゃないけど生きたくないから死ぬという選択肢しかない」というやつなんじゃないかと妙に納得をした。

不登校に関しても、「学校に行く」「学校に行かない」の間に色んなグラデーションがあるということと似ているなぁと思った。

「行く」か「行かない」かという選択を迫られ、言語化できない時は「行かない」とも言えないので「明日は行く」と言う。

当日になると「行けない」現実に周りは「行くって言ったよね?」と憤る。

あぁ、生きにくさ・理解されなさってこういうことなのかもと思った。

男は女が好き、結婚しないんだったら〇〇だろう、いじめられたから不登校なんだよね、○○出身だったら✖✖じゃない?、とか。

病気とか特性とかもそやなー。

それを全部ひっくるめてこれ言うと「めんどくせー」て思うやろなぁと思うということは、自分自身がそういう人のことをめんどくさいやつって思ってるからなんやろなぁ。

「しんどくない」ていうと「しんどさゼロ」って思われがちやけど、ほんまは「しんどさがピークの10ではない」ということかもしれないし「まだ我慢できるしんどさ3」くらいのものかもしれない。

相手に想像力を求めるより、自分に表現力を課すようにしたい。

「しんどさ10段階のうち今6やから、何とか動けるけど夜の遅い時間はしんどいから早めに用事は済ませたいな」と相手に丁寧に伝えることを続ければ、相手にとっても安心だろう。

1で100の理解力を求めるのも、100のことを1で伝える怠惰な姿勢もいやだ。

さらに言うと、1のことを100で言っちゃう鈍感さもいや。

ようするに、「100言えば全員100理解してくれる!」と信じている感じもしんどい。

冷たいと思われるかもしれないが、基本的に「人と人は理解し合えない」「価値観の一致なんて以ての外」だと思っているので、根っこの部分は人を信じていない。

そして、信じていないから裏切られるという概念もない。

というか「信じたのに違うことをした!」ということを裏切りと捉えるのは傲慢だと思う。

相手からすれば、「勝手にあなたが信じているだけで私はそうは思っていない」かもしれない。

あ、ここまで書いていて気が付きました。

三科、病んでる説。


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