自らの死を証明できた者は、未だ誰もいない

こんばんは。

お腹が空きすぎて急いでホットケーキにフォークをぶっ刺し口に入れたら前歯が欠けた三科です。もう20年前の話し。

さて、今日も朝からオンラインミーティング。

移動中でもスマホにイヤホンでミーティング。

便利な分、自分でモードチェンジをしたりエンジンの掛け方を身に付けないと、怠惰な僕は何でもありになってしまいそう。

今日のお勉強は、いじめ防止対策推進法と適応障害・コロナ禍での子育て環境の変化について。

それぞれまだまだ知らないことばかりですが、なるほどと思えることも多くインプットの大切さを改めて実感。

例えば、適応障害とうつ病の違いについては、適応障害は環境整備をすることで比較的治療に時間がかからないことが多いのに対して、うつ病はきっかけがはっきりしないことが多く治療に時間がかかるということなど。

実際に周りにもこの2つの障がいと病気で苦しんでいる人を知っているけど、こんな初歩的な違いについても恥ずかしながらあまりよくわかっていなかった。

僕自身、18歳の時に幼馴染の事故死をきっかけに躁うつ病を発症。

あれ?きっかけははっきりしないんじゃないの?とも思ったが、当然例外もあるだろうし、うつと躁うつ病もまた違うんだろう。

経験としては、服薬をし始めたら一日18時間は寝ていた。

3カ月くらいただひたすら寝た。

あとは服薬を続けていたらだんだんと症状も軽くなったけど、薬の副作用との戦いがとにかくしんどかったのはとても記憶に残っている。

今思えば、そんな経験も現在の仕事に役立っているので必ずしも消し去りたい過去とは思わないが、当時はもうただただ辛かった。

自分が年上の人たちに随分救われているように、歳をとるということで失うことよりも得ることに焦点を当ててそれを生かして誰かの役に立ちたいと思うようにもなってきた。

20代の頃からは到底想像もつかない世界。

一日に50回は「死ぬ」って言ってたんやないかな。

あ、そうそう。

今日のインプット、もう一つ。

生と死について。

研究者の方の言葉がとても印象に残っている。

「自己の死と他者の死が違うということが大事。他者の死は経験をすることができるけど、自己の死を経験した者は誰もいない。だから、自分が死ぬということは厳密に言うと誰も証明できない。」

うそー!めちゃくちゃ面白いこと言うやん、この人ー!

確かに「自分、死にましたー!」なんて言ってる人聞いたことないー。

人間が勝手に脳死とか心臓停止を死って決めてるだけで、生と死の違いってもっとグレーな部分もあっていいんちゃうかって思ってしまいました。

うーん、おもしろい。

あと、

死を語らずして生を語ることはできない。なぜなら人間は一日一日死んでいっているから。

と言う言葉にもホホーっと思いました。

どう生きるかはどう死ぬかということでもあるので、単純に死をタブー視するのもいかがなものか、ということですね。

30歳になるまではホントにいつ死んでもいいと思ってたので何も怖くなかったけど、だんだんと逆に保険を掛けるようにもなりました。

そんな危うい20代は、仲間がずっと僕を守ってくれていました。

誰にでも喧嘩を売る僕を身を挺して止めてくれたし、死を語る僕の話しを「はいはい」とずっと聞いてくれました。

そんな仲間への信用の土台があるから、今の自分がいることができるんだと思います。

今日は、いいインプットの時間を作ることができたので、皆さんと共有させていただきました。

死生観について、皆さんのご意見を聞くことができれば幸いです。

最後まで記事をご覧いただきありがとうございました。

編集後記

「印象」とキーボードで打とうとしたら「飲酒王」とタイピングされ、独りでクスっと笑いながら「誰が飲酒王やねん」とツッコみました。